個人投資家サラリーマンの脱獄記録

労働者という現代の奴隷が脱獄出来るか終身刑になるのかの記録を綴ります。投資先は米国株です。グロース株を主体にVTI等の積立投資も実行している。住宅ローンあり妻子ありの平凡なサラリーマンのブログです。

平凡な会社員がマイルド絶望から救われた話~“資本論”マルクスの見ていた景色を見て~

毎朝、子供と手を繋ぎ、幼稚園まで送り届け、幼稚園から駅までのひとりの時間。


道すがら、自分が子供の時に感じていた、朝のすがすがしい気持ちになれていない事に気付きます。


晴れているのに、曇っているような感覚はどこから来るものなのか、またいつから感じているのかすら曖昧な状態のまま、電車に乗って会社に向かいます。


この記事は、そんなどこにでもいる会社員が、マイルドな絶望から少しだけ救われた「この世界の見方」を共有していきたいと思います。



働く意味とか働き甲斐とか、それは言葉のモルヒネ

私たちの生きている社会は資本主義社会であるという事実があります。


わたしは、この世界を覗くための“とある色眼鏡”と出会ってから、日々感じるマイルドな絶望感が薄まり、「うん、そうだよな」という納得感と、「じゃあこれからどうしようか」という選択肢を得れたような気がしています。


そして、“とある色眼鏡”とは資本論の著者であるカール・マルクスさんの見ていた景色というものになります。私は経済学部ではなかったですし、学生の頃に歴史のテストの為だけに暗記したくらいの記憶しかなかったのですが、働き始めてから経営・経済の構造を知っていくうちに、資本論にたどり着きました。


そして資本論を通して今自分の生きている世界を覗いてみると、今までと少し違った見方が出来るようになりました。


資本論の中では「商品」という概念が出て来ます。


資本主義社会とはどうゆう世界なのか、言い換えれば、今の世の中はどうゆう世界なのか、という話なのですが、資本主義社会とは“商品の生産や交換や消費が行われるし、商品による商品生産がおこなわれる社会”という感じらしいのです。


当たり前のこと言っているようだし、意味不明にも感じたのですが、たしかにそうなのです。


私も周りを見渡してみたら、確かにそうだなと思いました。


衣食住は全て商品だし、レジャー(体験)も商品だし、ソリューション(無形)も商品だし、医療も商品だし、、、。


これらを、私はお金というものと交換して手に入れているので、生きていくためにはお金が必要というわけです。


手っ取り早く言えば、そのお金を得るために、日々会社に行くわけですね。


自分の働く意味だったり意義を求めたり、考えている人は多いと思います。私もそうでした。


すべてを否定しているわけではないのですが、マルクス眼鏡をかけてみて思う事としては、そうゆうものは無いんじゃないかな、と思うのです。


むしろ「働き甲斐」という言葉は、自分を納得させて、すべてを投げ出したくなる心の痛みを消し、また労働力の再生産を行うための“モルヒネ”のような言葉だなと思ったのです。





ぜんぶ商品になっていく世界

少し話は逸れますが、私が子供だった頃と比べ、色々なものが商品(サービス)になっていることにも気が付きました。


人との出会い、特に男女の出会いがオンラインデーティングサービスとして商品になっていますね。


私がまだ学生の頃は出会い系サイトと呼ばれてちょっといかがわしい感じで扱われていましたけど、現代はごく当たり前で、いかがわしさはなく、みんな普通に使っています。


そのうち人の遺伝子も商品化されるかもしれません。


少し前に、中国産の新型ウイルスワクチンが一部の富裕層の世界にて、闇で売買されているというニュースも出ましたが、医療や命に係わるすべてのモノも商品化していきます。


また、初めは目を疑いましたが、有名な人の個展を片付ける権利というものも売られていて、それを買う人もいるみたいですね。


ボランティアじゃなくて、お金出して買う。いやいやそれってただ働きを超えた課金労働ですよね?と私は思うのですが、それを買う人は何かを思い、その商品を買うからこれらも成り立つわけです。


このように、私たちの生きている世界はその特性上、あらゆるものが商品化していく社会です。


マルクスは


資本主義的生産様式が支配している社会の富は、巨大な商品集合体として、個々の商品はその富の要素形態として現われる。だから、私は、商品の分析から叙述を開始する

参照;https://ja.wikipedia.org/wiki/資本論



と言っていました。




自分も商品だった

本題です。まさに、ここがポイントでした。


私は現代に生まれ生きていますので、基本的な人権の尊重という日本国憲法の加護の元にいます。


だから、ひとりの人として、人間として生きている。


決してモノとか動植物のような扱いは受けていないという事は事実なのですが、マルクスの定義する資本主義社会では労働力は商品と定義されています。


私は、自分の時間や能力や物理的な肉体を労働力という形で労働契約のもと資本家に売っていて、資本家はそれを買っている。


感性や意識までは売っていないつもりですが、、、。


しかし、それもいつまで保てるのかもわからないです。


資本主義はその性質上、今まで商品やサービスになり得なかったものがどんどん商品になるように、人としての意識とか自我とか感性なども商品化し売り買いするようになっていく可能性があります。


これは本当に怖い事です。私の感じていたマイルドな絶望はこのあたりから来るものだったと思います。


そうなった場合、私個人の選択肢は2つで、


①その大きな流れに巻き込まれ、消費労働者としてその世界を楽しむこと
②資本家の側にポジションを取ること


このように考えられるようになった時に、少しだけ絶望感が和らぎました。





おわりに

なんとなく囚人になったような閉塞感を感じて、脱獄を試みるのか、模範囚として刑期を全うしながら囚人生活のなかに楽しみを見出すのか。


脱獄とはすなわち、消費者労働者ではなく資本家になることで、模範囚とは世間で勝ち組と言われるキャリアをあくまで労働者として築いていくこと。


そんなことを、ぼんやり考えていました。


今自分が生きている世界を、自分の経験や価値観で見るのではなく、システムの構造という、今までと違う切り口で覗いてみると、私たちの抱える「言葉にしづらい絶望感や閉塞感」を少し和らげ、未来をもう少し明るく見通せることも出来ると思います。


この手の話は悪徳宗教のような精神論に寄りがちですが、絶対にそんなことは無く、経済システムや社会システムの本質を理解しようとすることで気持ちが楽になることもあるのかなと思っています。

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