それでも感じるモヤモヤ
会社員や組織人であれば、どこでもある当たり前のことかもしれませんが、実業務に加え、複雑な人間関係や理不尽な対応など、金銭面の不安や生活の困窮から脱しても、生きていれば様々なストレスは付きまとうと思います。
現在の私は、幸いにも新型ウイルスによる影響もほぼ受けることもなく、恐らく相対的にも、主観としても恵まれていると思っています。
ただ、なにかずっと心の中に引っかかるものがありました。
そんなことを感じる余裕のなかった時期が過ぎた時に、ふと意識することが増えた気がします。
このモヤモヤや言葉に出来ない不安感は何だろう、とずっと考えていましたが、なかなか的確な言葉が出て来ませんでした。
妻や子供たち、両親とは皆仲良く幸せに暮らして、今のところ大きなけがや病気もしていません。
旅行が好きなので、毎年家族で海外旅行に今の所、行けています。
週末は好きなサーフィンや釣りを楽しみ、子供たちと遊んでいます。
仕事は楽ではないですが、すでに会社を去った元メンバー含め、今でも優秀な部下に恵まれています。
決して満たされないという訳ではなく、ただ何となく不安で怖いという感覚がずっと心の中にあるのです。
不安と恐怖の正体
この不安と恐怖感に気付き、今後自分はどうすべきかを真剣に考えるきっかけになった出来事があります。
私が管理職として約20名ほど部下を持っていた時でした。
「あきらかにおかしい」「誰の為にもならない」「費用対効果も悪い」「コンプラギリギリグレーっすよ」と思う事を会社の意思決定として推し進め、また部下に説明しました。
サラリーマンとして、また自分の立場として、そして仕事として、自分のしたことは間違っていなかったと思っています。
ただ、多くのメンバーが職場を去りました。
そして、戦力が減るので、残ったメンバーに過度な負担をかけてしまいました。
これは会社のことを批判しているのではありません。
自分の会社ではないので、自分の思う通りにはならない、という当たり前の事を書いているだけです。
あの時、私は自分や部下、組織の事、そしてクライアントの事を考えて、経営陣に面と向かいあい、ストレートに何度も根気強く、反対意見・別のやり方を、伝えることが出来ませんでした。
嫌われ、自分の評価を落とし、その結果報酬が減り、自分の生活レベルが下がることが怖かった。
いやいや、結果で評価されるので良い結果出せばそんなことない、という事も理解しています。
しかし組織や人はそのような杓子定規な基準を機械のように当てはめ、綺麗に意思決定できているという事はない、とも思っています。
世間を賑わす、大企業の不祥事に手を染めてしまう人を擁護するわけではないですが、「嫌だ」「できません」と言えない気持ちは何となく分かるのです。
前から薄々と感じていた不安と恐怖の正体が、この時分かりました。
私は生活も家族も時間も、多くのことを会社に握られている、依存している、という状態が恐怖の正体でした。
あたりまえですが、会社は社員を守ってくれません。これは若い人に届いてほしい。妙な期待をして勝手に失望しないでほしい。そしていっときの感情で間違った判断をしないでほしい。
たとえば、経営陣が経営判断を誤り、業績が悪化すれば、そこにいる社員に責任がなくても(1ミリも関与していなくても)給料は下がるでしょう。
会社が潰れれば、職すら失うでしょう。
これは会社員として働く誰もが同じ状況かもしれません。
そのために、専門的なスキルやモビリティスキルを高め、どこでも通用するビジネスマンになる必要がある、という話も間違っていないと思っていますし、人材の流動性が少しづつ高まり、働き方を見直し、副業も市民権を得られるようになった現代では、教科書的な考え方だと思います。
ただ、ひとつ、事実があります。
資本主義社会では労働者という立場である限り、この私が感じている不安を生み出す根本的な構造は、何も変わりません。
新しい会社に移って、労働環境が良くなろうと、多少給料が上がろうとも、また同じ力学がそこで働くだけ、ということです。
私は何を望んでいるのか、何が欲しいのか
学生時代~社会人序盤に“なんとなく”「起業したい」「社長になりたい」と思っていたことを振り返り、その“なんとなく”を深堀りしていくと、私の本当に望んでいたものが見えてきました。
一つはお金です。
めちゃくちゃ贅沢したいとか、Twitterでお金配りたいとかそうゆう欲はないのですが、大切な人と不自由なく、好きな旅行をして暮らしていければいい程度にはお金が欲しいと思っています。
もうひとつ、自由を望んでいる自分がいる事に気付きました。
現代の日本では人間はみな自由といえば自由なんですが、もっとエゴに近い感覚です。
私は、
誰かに指示されるのがあまり好きではないです。
誰かに言われたことをやるだけなんて最悪です。
自分がこうしたいと思ったことをやれる自由、嫌なことを嫌だと言える自由が欲しい。
そういったことが昔から潜在的にあって、それが当時の私の口から「起業」というフワフワした言葉で出て来てたのだと思います。
私たちの生きている資本主義社会とは
私がこれからどうしていくのか、という事を説明する前に、まず資本主義の構造について簡単に説明させてください。
資本主義社会の構造や力学について詳細に書くつもりはないですが、資本主義社会には大きく分けて資本家と労働者という2つの立場の人たちがいます。
そして、原則的には、そのどちらかの立場の人しかいません。
カール・マルクスは“資本論”の中で資本主義とは何かを提唱しています。
資本論の要約としては「資本主義はダメ、社会主義が至高だね」という内容なのですが、その理由を説明する中で“価値”という概念が出て来ます。
“資本家は剰余価値を増やせば、その資本がさらに大きくなりますよ”
と言っています。
労働者を使って剰余価値を生むなら、長時間死なない程度限界まで働かせれば剰余価値が増えますよと。
また、
1時間で生産してたものを仮にx個とした場合、30分でx個生産できる様にすれば、1時間で従来の2倍生産出来るので、剰余価値は増えますよと。
そして更に、
労働者に支払う賃金を安くすれば、剰余価値は増えますよと。
酷い話ですが、これらは事実だと思います。
そのような社会が自由競争の資本主義社会だと言っています。
またフランスの経済学者トマ・ピケティさんはr>gという非常にシンプルな不等式を“21世紀の資本”という著書で公表し話題になりました。
r>gとは資産 (資本) によって得られる富、つまり資産運用により得られる富は、労働によって得られる富よりも成長が早いし大きい、という事です。
資本主義社会である限り経済格差は無くならない、むしろその特性上、時間の経過とともに加速しますよ、という事です。
このような世界に、労働者として生きている限り、私はたとえ給与や報酬が増えようと、環境がマイルドになろうと、私が本当に望むものはずっと手に入れられないな、と思ったのです。
市場や組織の評価に怯え、誰かの顔色を伺い、炎上上等と言える強さも無い私は、ずっとこのままなんだなと。
だから、出来ることやろう、と思いましたし、行動しようと決意しました。
ここまでが、私の自己紹介と、専業サラリーマンではなく個人投資家サラリーマンとして生きていくと決めた経緯になります。
次からは個人投資家サラリーマンとして、なぜ株式投資を選択したのか、という話を書いていきたいと思っています。
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